学校などで人生一度は経験することが多い百人一首。百人一首にはさまざまなタイプの和歌が入っています。
ジャンルとその数を明記すると
・春の歌(6)
・夏の歌(4)
・秋の歌(17)
・冬の歌(6)
・恋の歌(43)
・旅情の歌(4)
・その他の歌(20)
となります。
このように表にしてみると、恋の歌が飛びぬけて多いことがよくわかります。
そこでこの記事では『百人一首の恋の歌人気ランキング!一番切ない和歌はこれだ!』と題しまして、百人一首で人気の恋うたを独自の視点からランキングしていきたいと思います。 これを機会に百人一首の世界に興味を持っていただけると幸いです。
第5位:瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
第5位は崇徳院(すとくいん)の句です。77番目の和歌です。
意味:川の浅瀬が速いので、岩にせき止められた急流が二つに分かれても下流でまたひとつになるように、私たちも今はわかれていてものちに再び会おうと思うのです。
現代語訳を見るとその情景が浮かぶわかりやすい和歌になります。
今は離れ離れだけどいつかまた一緒になろう、というのが新型コロナで離れてしまった家族や恋人をも彷彿とさせる、今だからこそより素晴らしく感じると思いランクインいたしました。
悲劇の天皇崇徳院
崇徳院は、数え年5歳(実際3歳半程度)で天皇になった後、自らの父である鳥羽院によってお飾りのように扱われ、その後23歳という若さで隠居を命じられます。
さらに、自分の子ではなく父親の幼い子供(つまり腹違いの弟・・・近衛天皇)がまたしても鳥羽院の策略でたった3歳で即位してしまったのです。
さらにその後近衛天皇が病死すると、またしても自分の子ではない人が天皇になり、崇徳院のストレスはマックスになり、とうとう復讐しようと立ち上がりました!
ですが、その後崇徳院はあっという間に戦に負け、隠居を命じられそこで亡くなりました。
そんな悲劇の崇徳院ですが、皆に優しく穏やかな天皇だったと言われています。この恋の和歌はそんな崇徳院の優しさだけでなく、戦を起こそうとするエネルギッシュな部分も出ているバランスの良い和歌と言えるでしょう。
第4位:玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
第4位は式子内親王(しょくしないしんのう)の作品です。89番目の和歌です。
意味:私の命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまっておくれ。このままもし生き続けていたのならば、恋心を忍ぶ心が弱って、人目については困るのだから。
この和歌は恋の中でも「忍ぶ恋」と呼ばれるジャンルになります。人知れず誰かを想い、それを31文字にまとめ上げるラブレターのようなものです。
これだけ情熱的な気持ちを抱えて生きているなんて、一途で素晴らしいですし、このような和歌をもらったときには恋に落ちてしまいそうです。
特に作者の式子内親王は恋の和歌の名手でした。
立場と身分が切なさを産んだ式子内親王
式子内親王は神に仕える斎院(さいいん)として親兄弟から離れて孤独に暮らし、供物をささげたりお祈りをする巫女のようなお仕事をしてきました。
その後、無事にその任期が明けたと思いきや母親と妹を病気で亡くし、兄も戦で殺されてしまうという悲劇に見舞われふさぎ込んでしまいます。
そんな時に現れたのが藤原定家(ふじわらのていか、百人一首を選んだ張本人)です。定家は式子内親王の悲しみに寄り添いながら歌の先生や仲間としてそばに居続けました。
この定家と式子内親王は恋仲にあったとも言われています。もしかしたらこの恋の和歌も、定家のためだったのかもしれませんが、二人には身分の差があり結ばれることが出来ませんでした。その切なさが名歌を産んだのかもしれません!
第3位:恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
第3位は壬生忠見(みぶのただみ)の句です。41番目の和歌です。
意味:私が恋をしているという噂が早くも立ってしまった。誰にも知られないようにこっそり思い始めたばかりだというのに。
続いても忍ぶ恋です。
作者の忠見は貧しく苦労してきました。そのため高貴な身分の女性に恋をしてもかなう事はありませんし、そもそも生活でも苦労している状態です。
そのため、忠見の必死な気持ちや切なさをうまく表現できたのではないかと言われています。
歌合せの勝負で敗戦した和歌だった
この和歌は、平兼盛(たいらのかねもり、40番の和歌)との勝負で負けてしまった和歌でした。しかし、兼盛の和歌と忠見の和歌はすぐに判定が出ないほど甲乙つけがたい勝負だったとのことで、後世に語り継がれる伝説となっています。
その場に居合わせた天皇により兼盛の歌が勝利しましたが、和歌や歴史を研究している人の中には、忠見の和歌の方が優秀だったという声も多いのが事実です。
ちなみに兼盛は忠見より身分も高い暮らしをしていたそうです。
第2位:筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
第2位は陽成院(ようぜいいん)の句です。13番目の和歌です。
意味:筑波山の峰から流れ落ちてくるみなの川。その水が溜まって淵となるように、私の恋心も募っています。
陽成院は9歳で即位し、17歳で退位した天皇です。この和歌を詠んだ頃はすでに天皇を退いていたころです。
退位した理由は、宮中で殺傷事件を起こした等良くない噂が横行していました。
しかし、実際のところはどうだったのか、そんなことはなかったという意見もあります。政治のために悪い噂を流されたのではという見方もあるのです。
恋には一途だった陽成院
今回ご紹介した和歌は、妻の綏子内親王(すいしないしんのう)に贈られたものです。綏子内親王は、陽成院の後に即位した光孝天皇の娘でした。ある意味陽成院からしたら憎き相手の娘とも言えなくもありませんでした。
しかも陽成院はその噂どおり、馬で走り回ったり様々なやんちゃをするのが好きだったようです。また、自分が隠居になったことによってやさぐれていたとも言われています。
ところが、綏子内親王はそんな陽成院にしっかり寄り添いながら支え続けたようで、次第に陽成院の心も解きほぐしていったのか、綏子内親王に対してはしっかりと恋心を伝えて見事に仲良く夫婦になったようです。
第一位:君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
第1位は藤原義孝(ふじわらのよしたか)の句です。50番目の和歌です。
意味:あなたに会うまでは、なくなっても惜しくはないと思っていた私の命までもが、あなたにお会いできた今は、長くあってほしいと思うようになりました。
日本語訳を見ると、かなり情熱的な和歌だという事がわかります。さらに、義孝はかなりの美男子で賢く、身分も良く、そして性格も穏やかで将来を有望視されていたそうです。
実際にこの和歌を贈られた女性は、その後晴れて夫婦となりました。
その女性はとある宮中のお祭りで奉納のための舞を踊った姫だったそうで、今まで恋に疎かった義孝はひとめぼれをしました。それから筆まめで優しい義孝は真面目にこの女性を口説き続けて見事実を結んだのです。
その後の義孝の人生で和歌が生きる
その後、なんと義孝は流行り病でわずか21歳で亡くなってしまいます。
義孝はそもそもこの女性と恋をする前は、仏門に入り(出家をして)修行をするという希望を出すくらい真面目一筋の男性でした。
その男性がまるで神様や仏様に見初められてしまったかのようにあっけなく亡くなってしまったのです。
早く亡くなる運命だからこそ、ただ一度の恋だったこの時にすべてをささげるような情熱的な和歌を詠むことが出来、つかの間の幸せを味わう事が出来たのかもしれません。
このような悲劇があるからこそ、この和歌は今でも多くの百人一首ファンから愛される名作として語り継がれるのです。
一度ハマると抜けられない百人一首
この記事では心をつかまれるような5首をご紹介しましたが、百人一首はその名の通り100もの和歌があります。
それだけひとつひとつにドラマ・物語があり、31文字という短さだからこそ短編小説よりもさらに短く楽しむことができながらも後を引く味わいがあります。
これを機会にたくさんの恋の和歌を知り、ときめいてみてはいかがでしょうか。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。